神聖フリナリカ王国盛衰史 異説集

◆はぐれ王子辺境譚 [8]

 豪雨が鉄の瓦を打つような轟音が草原に鳴り響いた。
 それを耳元で聞かされたハウランはたまった物ではない。鼓膜が破れたと本気で思った。彼がしゃがみ込んでいるのは、幾重にも重装兵の大盾で囲まれたドーム状のバリケードの中だった。マフィアたちの燧石銃すいせきじゅうから放たれた銃弾が断続的に分厚い金属の板に叩き付ける一分余りの間、そのハウラン達が認識できるのは耳を聾する音と衝撃ばかりだった。
 しかし弾が切れたのかその音が止んですぐ、ハウランは自分の聴覚が生きている事を自覚した。バリケードの外側でどさりどさりと巨大な肉のかたまりが地面に崩れ落ちる音を聞いたのだ。
 ……こりゃあ、騎兵はもう残ってはいまい。虚しい覚悟が彼の胸に去来した。騎兵だけではない。密集した中でも敵方に近い位置に構えた重装兵達の多くは動く気配もなかった。鉛を挟んだ大盾でも防ぎきれなかった銃弾を自らの肉体で受け止めてみせたのだ。
「殿下、ご無事ですか」
 ハウランをかばって背中から覆い被さっていた兵がそう訊いた。屈強ではあるがまだ成人もしない若い兵だ。
「何とかな」
 とハウランは答えた。
「しかしこりゃ駄目だ。まさか極道の連中を引き連れてくるとは思わなかったぜ。悪かったな、お前たちにはわざわざ死にに来させたようなものだ」
「おやめ下さい。殿下をお守りできれば拙者らには本望です」
「すまない……ありがとう」
 ハウランは自分の立場の業の深さを思って珍しく祈った。辺りに血の臭いが漂い始めていた。
「おい、お前の妖術で奴らを何とかできないのか」
 ハウランはさらに自分の腕の中に黒髪の少女を抱くようにして庇っていた。彼が強引にバリケードに引き込まねば蜂の巣になっていたであろう少女は、しかし泰然たる様子で
「無理じゃのう。心を操ろうにもこう警戒されていては付け入る隙がない」
 と応じた。
「それにの、先日から言おう言おうと思っていたが、その『妖術』というのはよさんか」
 妾の術は古の時代から受け継がれしうんぬん、と場違いな蘊蓄を垂れだした少女の話は聞き流し、ハウランは覚悟を決めて胸元に隠した小箱に手をやった。……よし、こいつも無事のようだ。
 ちょうどそのとき、外の様子を窺う事のできる兵が声を張り上げて状況を伝えた。
「銃撃が止みました。敵戦力は変わらず。敵方も様子を見ている模様」
「わかった。防御体系を解け」
 ハウランがそう命じたのでざわめきが起こった。しかしそれもほんの数秒だった。蓮の花弁が落ちるように大盾のバリケードが瓦解し、ハウランがもう動かなくなった部下の身体を押しのけて前に出た。そのまま腰の長剣を抜いて地面に突き刺すと、両手を上げて戦意のない事を示した。
「俺の負けだ。おとなしく逮捕されてやる」
 それを聞いたホブエスが合図をすると、マフィアたちがハウランに向けていた銃口は次々に下ろされた。
「ずいぶん物わかりがいいのですね、兄さん」
「誰だって命は惜しいもんだ。俺の身柄さえ確保すれば、お前の顔も立つだろう。それに……」
 と彼は懐から例の小箱を取り出し、掲げてみせた。
「王家の墓から盗み出したブツもこうしてここにある」
「なるほど。安心しました。僕にとって最低限のものはちゃんと揃う事になりそうですね」
「そうだろう? だから早く俺を取っ捕まえろ。その代わり……これは俺からの最後の頼みだが……まだ息のある兵達は見逃せ。志を持った若者ばかりだ。主が変わっても国のために正しく働くはずだ。どうだ。それで手を打たないか」
 ホブエスがそ条件を飲めばよし、さもなくば……とハウランの木箱を握る手に力が込もった。しかしホブエスにとっては、ハウランの嘆願はまったくの見当違いだった。
「兄さん。何か勘違いをしているようですね」
 年下の兄の顔に、暗い笑みがうかぶのをハウランは見た。
「あなたの部下になど、僕はもとより興味はありません。僕に必要な最低限のものというのはね、その魔球と兄さん、血にまみれたあなたの首です。……やりなさい」
 最後はマフィアたちにそう告げて、ホブエスはくるりと背を向けた。
「ホブエェス!!」
 ハウランの絶叫は、ホブエスには断末魔の怨嗟に聞こえただろう。しかしそれは実際には反撃の狼煙だった。再度銃口が向けられるよりも早く、ハウランは手の中の木箱を握りつぶして宙に放っていた。
 慌てたのは制服組の連中だけで、マフィアたちは躊躇なく引き金を引いたし、ハウランも重力に引かれて落ちて来た無数の箱の中身——それは焼き物でできた古びた小さな球であった——の一つを掴み、これも手のひらの中で割り潰した。球から出て来たのは巻物状に巻かれた細長い古紙である。びっしりと古代文字が記され、糸草で封がしてある。ハウランに古代文字は読めない。しかしその魔球の力を用いるには、封を切って紙の帯を風に流すだけで十分だった。

 ……その瞬間、ハウランの視界は不意に一段暗くなった。
 それに身体の自由も利かない。まるで濃い粘液の中にでもいるように、腕一本動かすのすらひと苦労という有様である。
 しかしハウランにとってそれは既知の現象だった。身体の動きが制限されたように感じるのはギョトオと秘密裏に調べを進めた魔球の力の発露の結果の一部に過ぎない。より重要なのはその事ではなく、ハウランを除く全てのものが、動きを止めている事だった。ホブエス達安寧庁の役人どもも、マフィアの連中も、彼らの放った銃弾も、見方の兵卒や傍らの少女も、風に揺れる雑草の葉でさえ。
 ……否。
 よくよく目を凝らせば時は止まったのではなく、極度にその速度を緩めている。本来ならその軌跡を見切る事さえ難しい銃弾は、今や牛にも劣る速度でハウランに詰め寄りつつあった。
 そして今、力の解放者たるハウランただ一人が、その摂理を越えた現象に抗うことができた。空気の流れさえも鈍重になっているからまとも動く事自体が困難だし、呼吸もままならないから力を解放する直前に大きく吸い込んだ息がハウランの頼りだった。しかしそれでも、極遅の世界で自覚的に行動できる唯一の人間がハウランなのである。
 ハウランは力を振り絞って、地に突き立てた長剣を抜き、振りかぶって横薙ぎにした。それも通常のように素早くはできない。水の中で素振りするよりもなお身体が重い。しかし宙に浮かんでいるも同然だったいくつもの鉛の弾は、そののんびりした長剣のひと薙ぎに弾かれて軌道を変えた。
 ハウランは左から右へ目を走らせた。
 銃を構えているマフィアは十二人。そのちょうど中央にホブエスの背中がある。そしてその傍ら、寄り添うようにしてもう一つ、毛皮の背中が見えた。他の役人達はそこからさらに一歩引いている。
 まずは五月蝿い雑魚どもを駆除するか。ハウランはそう決めて、一番右の戦闘員めがけて海底を歩くような疾走をはじめた。

 味方の兵達にも何が起こったか分からなかった。敵の銃弾に射抜かれるかと思った瞬間、鋭い光が生じて弾丸が逸れ、ハウランの姿が消えた。かと思えば、三十歩以上先にいる敵陣のそこここから、唐突に血しぶきが上がり始めたのだ。マフィアどもが悲鳴を上げたのはその後である。
 目を凝らせば敵陣のなかを何か影のようなものが縦横に駆け抜けていた。影はものの数秒でマフィアと役人の殆どを斬り倒し、今や立っているのはホブエスと呼ばれた宰相とマフィアの頭領らしき人物、そして……なぜかその頭領と至近距離で刃を合わせているハウラン、その三人のみであった。

「はあっ! はあっ! はっ!」
 ハウランは信じられない思いでただ荒い呼吸だけを繰り返していた。まともに呼吸できないまま二十人近く斬り殺したのだから無理もなかった。そんな状態で、マフィアの頭領とおぼしき男が繰り出して来た短剣の突きをなんとか受けられたのは単に運が味方しただけだった。なんという鋭い突きだ。……いや違う、恐ろしいのはそんなことではない。何なんだ。……いったい何なんだ、こいつは。
 数瞬前の事を思い返してハウランは青ざめた。
 武器を持った下っ端を切り捨てた後、彼はほとんど静止していたと言って良いホブエスに後ろから切り掛かったのだった。圧倒的な速度の差の前で、その斬撃がよけられるはずはなかった。しかしその次の瞬間、信じ難いことが起こった。ホブエスに付き従っていたマフィアの男が、ハウランの前に割って入ったのだ。ハウランのように魔球の力に反して素早く動いたわけではなく超微速度ではあるが、奴は確実にハウランの位置を把握し、不敵な笑みさえ浮かべた眼光でハウランの視線を捕らえた。
 そうだ、あの目だ、とハウランは思う。
 光量の乏しい極遅の世界でもはっきりと見えていた。その初老の男の煙のような白髪、肌に刻まれた細かな皺、そして、この世の物とは思えぬ深紅の瞳。
 その目に覗き込まれた瞬間、ほとんど止まっていた世界は唐突に動き始めたのだった。これまで、自ら意識せずに魔球の力が消えたことはなかった。奴が何かやったのか。
「やってくれるじゃねえか」
 男のドスの利いた声とともに短剣が翻り、ハウランは一歩半は弾き飛ばされてたたらを踏んだ。
「はあっ、はぁっ」
 無呼吸のまま全力で動き回ったツケで身体が言う事をきかない。
「おらあっ」
「くっ……」
 続く二の太刀、三の太刀も受けるだけで精一杯だった。
 ホブエスはさすがに状況を飲み込めていないらしく、無防備なまま立ち尽くしていた。しかし男の剣撃が鋭くて彼に近づくどころか後退させられるばかりである。殺されるのも時間の問題だった。
 ……畜生、まだ死にたくねえ。
 ハウランの胸にどうしようもない焦りが生じた。最後に一矢報いるつもりの奇襲だったが、報いてもむざむざ殺されればやはり無念きわまりない。
 そんな雑念にとらわれたせいだろう。油断した。なおも打ち込まれる突きを長剣の柄で押し返した刹那、想いもよらぬ方角で光がひらめいた。男が左手でもう一振りの短剣を抜いたのだ。
「終わりだ」
 反応できる時間は残されていなかった。
 切っ先が喉元に迫ってくるのを、ハウランはせめてと思い目を瞑らずに見た。


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