神聖フリナリカ王国盛衰史 異説集

◆はぐれ王子辺境譚 [6]

 ドア付きの個室に設えられているハウランのものと違って、女奴隷たちが乗せられている馬車は荷台に簡素な幌のかかっただけのもので、出入り口も薄いカーテンが引いてあるだけだった。それをめくり上げて中を覗く。明かりの射さぬ車内でいくつもの瞳がぎらりと光ってハウランの方を見た。暗さに目が慣れてみれば、壁際に沿って並んでいる少女達はみな揃って魔物でも見たような顔で怯えたり、睨んだりしていた。つくづく胸くその悪い仕事だ、とハウランは思う。
「おい、」
 ハウランは昨夜の黒髪の少女を呼ぼうとして、なんと呼んでいいか分からない事に気がついた。結局、
「いるか」
 とだけ尋ねると、目当ての女は暗がりから仄白い身体を立ち上げた。他の奴隷たちと同じ薄衣に着替えているようだった。血のしみた包帯はまだ痛々しく巻かれたままだ。
「話がある。ちょっと顔を貸せ」
 そう言って首をしゃくると、彼女は馬車の中を振り返って肩をすくめたようだった。なんのつもりかと思っていると
「気をつけて」
 だの
「死なないで」
 だのという奴隷達の哀れむような声が聞こえたような気がした。……話があるだけだと言ってるだろうが。内心でそうハウランは毒づいたが、確かに彼女らにとってハウランたちは自分たちに危害を加える魔物とそう大差のない存在なのかもしれなかった。
「……ずいぶん悪者になっちまってるんだなあ、俺たちぁ」
 足早に自分の馬車に向かうハウランに、黒髪の少女が追いついてきて隣へ並んだ。
「俺たち、というか、お主が、じゃの」
 そういう彼女の顔には例のいたずらめいた笑みが浮かんでいた。他に耳がなくなるとすぐさま不遜な態度に戻っている。
「ん? どういう事だ」
「お主の兵隊じゃが、あやつら相当遊んどるようじゃな。女の扱いにも手慣れておるものと見える。女達も思ってたより酷い仕打ちは受けなかったと皆口を揃えておったわ」
「……それで?」
「うむ。じゃがそうやって極限状態からちょっと余裕が出てくると憎しみ合いを始めるのが人間の悪いところでな。今朝方妾があの馬車に入った時など、みんなして目の敵にしてきおった。おおかた、余所者の妾が王子様に気に入られて気に食わなかったんじゃろ」
「怖いもんだな。幼くとも女って訳だ」
「だから妾は言ってやったのじゃ。あなたたちは私があの高貴なお方に取り入っていい思いをしているなんて思っているかもしれませんが、とんでもありません。あの男は鬼です。悪魔です。ほらごらんなさい。涙ながらにそう言って昨日の刺し傷を見せてやったわ。こうして女が血を流して泣き叫ぶのを見ながら強引に貫くのがあの男の喜びなのです。あの男は私に目を付けて、絶対に逃がさない、何度でも何度でもお前を寝台に呼んでやる、逃げれば殺すと言っていました。私はもう一生あの男にいたぶられて過ごすしかないのです……でもそれも長くないでしょう、よよよよ……とまあ、そんな具合じゃの。相当評判悪いぞ、お主」
「お前のせいじゃねえか。人聞きの悪い事吹聴するな」
「何を言っとるか。けしからん暴行をはたらいたのは事実じゃろ」
「まあそれについては悪かった。……具合はどうだ」
「なんじゃ見たいのか? ほれほれ」
 と、だいぶ無理のある艶かしさを装って、巻かれた包帯の端に指を差し入れ開いて見せる。その冗談めかした様子にハウランは呆れ顔で少女の素肌を覗き込んだが、その目はまもなく驚愕に見開かれた。
「これは……」
 少女がふふふ、とまた鈴の音のような声でいたずらっぽく笑ったが、ハウランの耳には入らなかった。
 ——傷跡が、ない。
 包帯こそ赤黒く血に染まって痛々しいが、傷の名残さえ見当たらなかった。どんなに高級な薬草を使ったと言っても、こんなに早く傷が治癒するはずがない。少女が本物の姫巫女かどうかはさておき、とにかく常人離れした能力の持ち主である事は疑いようがないようだった。
 であれば……と、ハウランはほとんど確信を持って少女を自分の馬車に招き入れ、いかがわしい誤解を恐れずに人払いをしたうえで、こう問い質したのだった。
「お前、何をやった」
「何をやった、じゃと?」
「とぼけるな。磁石にか蹄猫馬にか俺たち全員にか知らんが、また怪しげなことをやったんだろう」
「ふむ……?」
 と、少女は本当にとぼけるでもなく、しばしぼんやりと虚空を見つめた後で、
「妾は何もしておらぬぞ」
 とこともなげに答える。
「嘘をつけ」
「本当じゃ。じゃがまあ、何が起こっているのかは何となく分かった。確かにこれは怪しげな事には違いないのう」
「お前の言う事を信じるとすると……」
 とハウランが言うのを、少女は
「信じるがよい」
 と遮った。まっすぐに見据えてくる眼力には、有無を言わさぬものがあった。小娘にいいように言われて忌々しくもあったが、他に頼れるものもなかった。
「……つまり、お前以外の誰かが何かをやっている、ということか」
「そういう事になるかのう」
「そりゃ誰だ。敵か?」
 その質問に、少女は質問で返してくる。
「それはそうと王子様よ。仮にこの商隊が襲撃を受けた場合、戦力になる部下は何人いる」
「……親衛隊の生え抜きが八人。それから他の兵籍は二十人弱だな」
「無礼を承知で仮に、じゃが。退却時に最低限引いて行かねばならぬ馬車は何台じゃ」
「人間さえ運べればどうにでもなる。五台ってところか」
「武器は剣と槍だけか」
「そうだ。……ああ、いや……それだけでもないが……。っておい、何だ。やっぱり敵なのか」
 とハウランは一瞬眉をひそめたが、はっとして身を乗り出した。
「まさか……あの男なのか」
 少女はアーレンと呼んだ。黒衣に身を包むという噂の超人。やはり奴もまた、この妖女の如くおかしな術を使うというのか。そしてそのやつが、すぐ近くに……。そう身構えたハウランは、しかし肩すかしを食らった。
「それは違うようじゃな。率直に言って、相手が誰かは強力に秘匿されておって妾にも分からぬ」
「……」
「それでもこの隊を立ち往生させとるお粗末な幻術を破るくらいは朝飯前じゃ。じゃが、そうすれば相手方にもすぐにそうと知れる。向こうはこちらの戦力を把握しておるじゃろうから、まともに戦闘になれば全滅を免れぬじゃろうな。かと言って何もしなければこの草原を出られず飢え死にするのが関の山じゃ」
「……やれやれ、八方塞がりか」
「妾がおらねば、な。お主と妾は目的を同じくする以上一蓮托生じゃ。この局面、全面的に協力してやってもよいぞ」
「策があるのか」
「うむ。お主が許せば、じゃが」
「とりあえず話せ」
「意趣返しで妾とお主の存在を秘匿してやる。そうしておいて、奴らの幻術を解くと同時に戦力を全速で退却させる。まあこれは囮じゃな。相手がそれに気を取られている隙に妾達は別な方角へ逃れるというわけじゃ」
「俺たちだけで逃れてどうする。結局のたれ死ぬんじゃないのか」
「そこまでは知らぬ。そんな事はうまく逃げられてから考えればよいわ。どうじゃ、乗るか?」
「論外だ」
 ハウランはろくに考えもせずにそう答えた。
 黒衣の男でないとすれば、こんな辺境の地で自分を狙う輩はそう多くない。相手はおおかた見当がついていた。それがまったくの見当違いでなければ、逃れたところで自分の帰る場所はすでに都にはあるまい。それに、
「ハウランと言えば人情派で知られていてな。出来の悪い部下達でも見捨てるわけにはいかねえ。悪いがお前の命、預からせてもらうぜ」
「……ま、そう言うと思っておったわ」
「ふん。姫巫女様の予知能力ってやつか?」
「いいや」
 と少女は笑う。
「女の勘じゃ」



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