神聖フリナリカ王国盛衰史 異説集

◆はぐれ王子辺境譚 [5]

 ハウランたちの商隊はマハイ丘陵地で最初の仕事を終え、夜が空けるとすぐにまた果てしない土の海原を南下した。
 本来の予定だと八十王里ほど下って、夜にはまた農村のありそうなところで松明を掲げるつもりであったが、この辺りの人種は前の村で十分に集まったという事で、もう少し先まで進む事にした。天気もいいからだいたい十五王里余計に進んで、北マハイを抜ける手前まで行ければ上々だろう、とギョトオは言う。
 ——あの女、何をどうやったか知らないが……。
 ハウランは彼専用の馬車に揺られながらそら恐ろしさを感じていた。
 ギョトオが予定を変更するのも、主義を曲げて少女たちを殺さずに置いたのも、そうしてギョトオのとりまきの兵たちまでもが皆、そのことに疑問すら抱いていないのも、何もかもが妙だった。
 更に言えば、昨夜の状況でハウランがあの少女をテントに連れ込んだのも、その娘を夜更けに血まみれで気絶したまま奴隷たちの馬車に運んだのも、兵たちが陰から俺をニヤニヤ笑うくらいで誰もどうとも思っていないようだ。……一体どんな異常性欲の持ち主だと思われているのかと思うと、それはそれで気が気ではなかったが。
 いずれにしても、あの少女が例のまじないとやらで連中の頭の中を弄くり回したに違いなかった。
 ハウランはその黒髪の女奴隷……もとい、彼が太陽帝国の姫巫女だと言い当てた、名前のない少女を思う。昨晩は何やかやのどさくさと少女の勢いにのせられ、ろくに話も聞き出さずに彼女を隊に留めてしまったが……果たして良かったのかどうか。

 太陽帝国は大陸の北東部に位置する山岳国家で、かつてはフリナリカ王国の属国だった事もあるが今は独立国家になっている。
 ただ『帝国』などという大仰な名でありながらその実取るに足りぬ小国であって、湖沼や良港を挟んで王国と接しているこの国を、国王軍が一時に攻め落とそうとしないのは、単に政治的な判断によるものであった。
 マハイの辺りから南の大森林にいたるまでを支配する古諸侯連合の連中が信奉している太陽信仰の総本山というのが、すなわちこの太陽帝国であって、そこに食指をのばせば連合がさあ口実を得たりと王国とのかたちばかりの同盟を反古にする恐れがあるのである。
 そしてその信仰の象徴として崇められているのが帝国を治める法皇と、神事を司る姫巫女である。異教徒の事であるから王国で耳にするのはずいぶん脚色された取るに足らぬ興味本位の作り話も多いが、特に姫巫女というのはどの話でも八百万の神を宿し、不老不死であり、未来を予知し、数々の妖術をあやつるといわれ、ほとんど神のようなものだとされている。
 しかし昨日の顛末を思い出すにつれ、それもあながち馬鹿げた作り話ではないのかもしれないとも思えた。

 その、姫巫女という彼女の身分が真実であれば、果たしてハウランは敵国の指導者を目的も分からぬままに自らの隊に引き入れてしまった事になる。逆にもし偽りであれば、それこそ得体の知れぬ妖術使いを招き入れた事になり、いずれにしても一国の王子としては正気の沙汰ではないようだが……。
「ま、どうにでもなれ、だ」
 ——どの道、陛下も大叔父も俺を殺すつもりでこの任務に出したのだ。今更何を恐れる事もない。あの姫巫女様が俺を陥れ、それを足がかりに王国をぶっつぶそうとでもいうのなら、そりゃ天晴な事じゃないか。いっそ派手にやってもらいたいものだ。
 そして何よりハウランの心を駆り立てるのは彼女が眠り際に放った言葉であった。
「アーレン……と言ったか」
 黒衣の男。ハウランが密かに待ち受けていたところの、伝説じみた男の名である。その男をあの女は知っているという。また、ハウランの心を見抜いたように、自分も求めるところは同じだとも言った。そして得体のしれぬ力を持ったあの女が、二人でいればその目的を達する事が出来ると言ったのだ。それを聞いた時点で、彼女を殺す事も放り出す事も、ハウランには出来なくなっていたのだった。

 商隊は昼過ぎまで順調に進んだが、日の暮れかけた五時くらいになるとハウランの馬車に馬係長が慌てた様子で指示を仰ぎに来た。どうも意図した方に進路を取れていないようだ、という。隊を止まらせてギョトオを呼び、地図を広げて馬係長に説明させたのを聞くと、本来ならよほど南に進んでいなければならないのが、二十王里も手前で足踏みをしている事になるようだった。
「何をやっとるんだ。間違えるような道さえなかったであろう」
「す、すみません! ……しかし、その……」
 ギョトオに怒鳴られて汗をかきながら、馬係長はなお何か言いたそうにしていた。
「何だ。言ってみろ」
 ハウランが促すと馬係長はその私見を述べたが、その内容にはギョトオも怒鳴る事さえ忘れたように、ハウランと顔を見合わせる事しか出来なかった。
「我々はどうやら同じところをぐるぐると回っているような気がします」
 馬係長はそう報告したのだ。
「おいおい、まさか磁石もなしに進んでいるわけじゃないだろうな」
「いえ、それはもちろん磁石をたよりに進んでいたのですが……」
 彼の言うのには、磁石の指す通りに進んでみても、しばらくして地形を計測するとおかしな方角へ進んでしまった事に気づく。それだから今度は地形を頼りに移動してみると、まるで磁石に背く事になる。多少地形の変わる事もあろうと思って調整しつつ進んだのだが、そんな事を続けていましがた自分たちのいる場所を詳しく調べてみると、想定よりも二十王里も手前にいるという。まったくおかしな話だった。
「磁石が壊れているのではないだろうな」
「いえギョトオ様、はじめは我々もそう思ったのです。しかしそうだとしても、あれだけ進めばこんな位置にいるという事は……。そもそも磁石がなくたって、太陽と月が出ていますからそう大きく間違える事などあり得ないのです」
「まったく妙ですな」
「うん……」
 とギョトオに頷いてみせながら、ハウランの頭には一つの考えがまとまりつつあった。答えの出ぬ沈黙の末、
「……つまり」
 と彼は溜息まじりにこう結論づけた。
「まるで妖術にでも掛けられたように、訳の分からん状況だという事だな。とにかく馬と兵を休ませようぜ。どこへ向かってるかも分からんのに進んだって時間と体力の無駄だ。いいな、ギョトオ?」
 そうして人を散らして、自分は奴隷達の馬車に向かったのだった。



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