神聖フリナリカ王国盛衰史 異説集

◆少女十七号 [2]


 部屋には大きな姿見鏡が据え付けられていた。硝子と水銀を使用した当世風のものではない。鉄か青銅の一枚物だが、よく磨かれており純白のドレスに身を包んだマアリの姿を克明に映している。今まで見て来たどんな自分の姿よりもそれは美しく見え、マアリは自嘲気味に微笑んだ。
 世話になっていた遊牧民たちの習慣では、こんな真白の衣装を着るのは婚礼の時か、あるいは葬られる時か、どちらかだった。今の自分は、と考えて彼女は泣きたくなった。どちらでもないのか、ある意味ではどちらでもあるのか。
 マアリは改めて、自分がこれから住むことになる部屋を見回してみた。天井だけは板が貼ってあるものの、壁も床も磨きの入っていない荒削りの大理石。寝具だけは清潔だがすぐにぎしぎしと鳴る鉄のベッド。加えて三十歩でぐるりと回れてしまう狭さ。部屋というよりも、そこは牢獄だった。
 と、そのとき部屋の扉がノックされてマアリは身構えた。扉と言っても粗末な木製で、鍵のかかるようなものではない。何か恐ろしい物がそこから有無を言わさず突入してくるのではないかと身を固くしたのだったが、聞こえて来たのはふうわりと優しげな少女の声だった。
「迎えに来ました。入りますよ」
「は、はい」
 と答えるまでもなく、扉が開いてマアリと同じ白いドレスを着た少女が姿を現した。白く透き通った肌に赤茶のカーリーヘア。ほとんど初めて目にする民族で、どのくらいの年齢かすぐにはわからない。胸元には十一、と刺繍があった。十一号さん、とマアリは思った。自分と同じような境遇の子だろうか?
「あなたが新入りさんね。よろしく」
 十一号はそう言ってマアリを軽く抱きしめた。フリナリカ式の挨拶だろうと思い、マアリも同じように返すと、離れ際に少女はマアリの耳もとで囁くように、
「バナ」
 と言った。
「え?」
 耳慣れない言葉にマアリが聞き返すと、少女はいたずらっぽく微笑んだ。
「私のほんとの名前。でもここでは声に出しちゃだめですよ」
「あの、私は、マアリ……」
 思わず自分も名乗ってしまったのは、そうしなければ自分が自分でなくなってしまうような気がしたからだった。それをしらせるために、バナと名乗った少女は真名を明かしたのではないかとさえ思った。バナはそれには答えなかった。代わりにどこか影のある、しかし惜しみのない笑顔を見せて頷いた。マアリにはそれで十分だった。
「さあ、行きましょう。歓迎の儀式があります」
 バナはそう言って背中を見せ、一緒に来るように促した。

 人がすれ違えるかどうかという狭く暗い石の廊下を、バナは迷いなく滑るように歩いた。マアリの部屋と同様のドアが並ぶ一角を抜け、何度も角を折れて細い階段を下りた。一人で部屋に戻れと言われても、マアリはそう出来る自信がない。バナはその迷路のような廊下をそらで歩き回れるほどに長くここにいるのか、と思い、少し胸が苦しくなった。
 それにしても、歓迎の儀式とはどんなものだろうかとマアリは思いを巡らす。儀式というからには、山羊肉のまんじゅうでも振る舞われるのだろうか、などと考えてしまい、それが空腹から来る滑稽な空想だと気がついて恥ずかしくなる。ここは懐かしい草原のテントではないのだ。
 この場所の性質からして、その儀式がすこぶる酷いものであることも覚悟しなければならないだろうと思う。先程の、老夫の節くれ立った指を思い出す。あの老夫も言っていたが、やはり生娘では具合が悪いのだろうか。だとすれば……と考えてかけて、やめた。とにかく覚悟は必要だ。

「終わるまで、ここで待っていますから」
 そう言って、バナは廊下の突き当たりの扉の一歩手前で立ち止まった。ここから先は一人で行け、という意味である。マアリは頷いて、鉄の扉に手を掛けた。ノブを引く手が自分の意志に反してがたがたと震えた。
 しかし意外にも、部屋の中には何とも拍子抜けのする光景が広がっていた。厚い絨毯が敷かれ、革張りのベッドとソファが向かい合わせに置かれたごく狭い部屋である。ソファには老夫が着ていたのと同じ闇色のローブに包まれた、若い女が掛けていた。歳はマアリと十も違わないだろう。
「やあ」
 と女は気さくに挨拶をした。マアリはあわてて会釈を返す。女に促され、ベッドに腰掛けた。ベッドとソファの間には簡素なテーブルがあり、暖房が必要なほど寒いわけでもないのに鉄鍋のような器の中で木炭が赤く燃えていた。
「売られて来たのかい」
 と女は尋ねた。
「いえ、その……」
 とマアリは答えに詰まる。自分がここに連れてこられた経緯を、上手く説明できる気がしなかった。
「まあいいさ。いずれにしても災難だったね」
「……はい」
「いや、災難はこれからかな。うんまあ、それじゃあ儀式だ。本当はね、ここで長ったらしいお祈りの文句を唱えなきゃならない。でもそんなのは私の性にあわないから、省略させてもらうよ。いいね」
「はい、あの……それでいいのなら」
「いいのさ。私が決めることだ。じゃあ必要なことだけ伝えるけど、これから私はあんたに焼き印を捺さなきゃならない。こいつを使ってね」
 そう言って、女は鉄鍋の炭に突き刺さっていた金属製の棒を抜き取った。木製のグリップがついていて、先端は熱せられて赤く光っていた。
「十七。そのドレスの文字と同じハンコさ。……おや、あまり怖がってないね」
 屈強な男達に代わる代わる力ずくで貫かれることさえ想像していたマアリにとって、それはさほど恐怖を煽る光景ではなかった。遊牧生活では家畜の識別用に焼き印を使うことは珍しくない。彼女自ら牛の尻に押し当てたこともある。それがもたらす苦痛がどんなものかほとんど正確に想像できる分、マアリは必要以上に恐れおののいたりはしなかった。しかしそれは屈辱を感じないということではもちろんない。まあ、家畜のようなものか……などと自虐的に考えながら、心の表面が痺れ、乾いて行くのを感じていた。

 『儀式』の内容について一通り説明すると、ベッドに仰向けになって腹を出すように命じられた。ロングドレスを着たまま臍の上まで露出させるには、スカートの裾をたくし上げて下半身をすべて曝け出さなければならない。けれども今更それを恥じらう気持ちは残っていなかった。
「消毒だ」
 と言って女は口に酒を含み、霧状にしてマアリの下腹部に吹き付けた。
「覚悟しな」
 言われてマアリは固く目を瞑った。……じゅっという音が二段階に響いた。はじめは酒の蒸発する音、その後は肉の灼ける音。作業は一瞬だった。
「……っ!!」
 想像していたよりそれは熱く、痛かった。声も出ない苦痛にマアリは体をよじらせ、ベッドから転げ落ちてのたうち回った。
 泣きたいなんて思わないのに、驚くほど涙が出た。
 ——どうして。どうしてこんなことに。
 吹き出した汗が目に入り、視力を奪う。現実の視界は霞み、瞼の裏に浮かんでくるのは『あの夜』のことだった。
 ——こんな事になるなら、あの時、あの男と一緒に行けばよかったんだ。
 ——なのに私は……。
 ——こんな……。
 意識が遠のく寸前、耳元で女の声がした。しかしそれはどこか遠いところから聞こえたような気もした。


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